昨年の暮れ、12月29日、楽しみにしていた「吉原炎上」
観月ありさと吉原は、どうも
つながらない、と思ったが・・・
意外に良かったのだ、これが。
内田久野(観月ありさ)が吉原に売られてきたのは明治40年の春…18歳を迎えた年。
久野の故郷は貧しい岡山の農村。
義理の父が商売に手を出して多額の借金を抱え
久野は女衒に買われた。それも途方もなく安いお金で…。
吉原は官許の遊郭であるため、ほどなく営業鑑札の許可がおり
久野は男との初めての夜を迎えた…。
久野には結婚を約束した勇吉という幼馴染がいた。
あの日誓った約束…そんな思いを胸に久野は知らない男に抱かれた…
怖かった…涙が溢れて溢れて…
今は単なる歓楽街の台東区吉原・・・・・
ここは江戸から明治にかけて約三百年間、
文化、流行の中心地として繁栄を極めていて、
全盛期には約三千人の花魁と呼ばれる遊女が暮らし、
花魁道中が華やかに行われていたという。
でも、そこに暮らす遊女たちの多くは貧しい農村から売られてきた少女…
そこでの扱いもひどいもの。病気になってもろくな治療もして貰えず、
寺に捨てられる…借金は膨らんでいくばかり…そこは
地獄だった。
吉原・・・・・そこで見えてきたのは、青春という言葉すら味わうことなく
散っていった少女たちの命。
観月ありさは、背の高さと、現代的な顔が気になったけれど、
花魁道中はとても綺麗だった。
他の俳優も良かったし、特に観月と張り合う、星野真里が
女の機微をうまく演じてて良かった。
この花魁は、浮世絵にも描かれ、
やがてはゴッホなど、世界の有名な画家にも影響を与えている。
今も昔も、人間のしている事は
何も変わってはいない。
人間の欲と、それを商売にする人間。
まるで、生皮はがされて、皮を売られ、死んでいく動物と同じだ。
人間は欲にかられると、「誇り」とか「尊厳」とか、
そういうものは忘れてしまうのだ。
観月ありさが客である男に抱かれる時に、自分に言い聞かす。
身も心も凍らせよう
人間は、こう考えればやり過ごせるかも知れない。
だが、動物は・・・苦しむだけで、考える機会も与えられず、
訴える言葉も持たず、だから人間が守っていくしかない。
私は最近思うことがある。
欲を満たすのは、自分だけが満足するのであって、
他の誰も満足するものでは無い、という事。
そして
日本では、もって生まれた欲求はほぼ満たされるという事。
私は自分だけが満足する「欲の満たし方」に不満を覚えるようになってきたのだ。
ここまで来るには、随分、自分にお金を使ってきた。
特に昨年の
ヨーロッパ一人旅は、そうだ。
脳そのものが、満腹したような感じだ。
脳が満腹すると、不思議と自分以外の世界に目が向いた。
自分が自分を満たすだけでは、満足しないのだ。
そこで、
フォスタープランに入った。
・・・・・・・・・・・・待てよ???という事は、
自分を満足させるために、入った、と言うことか???
自分でしたためて、気づくなんて、、、、、、、(汗)
これがブログというものではあるが、、、、、
自己満足であろうと、自分ひとりを満足させるだけよりは
ましではないかしらん???・・・・・・・・自爆・・・・・・・・